よい子のための絶対銀域

例えるなら銀様の膕

短編小説 『東京』

えっと。

東京に来て一年が経ちますが、夜の喧騒は未だに慣れたものではありません。平日であれば遅くとも十一時には床に就くようにしているのですが、毎晩聞こえる人やそれ以外の音が私の意識を掴んで離さないのです。

それでも普段は日中に蓄えた疲労に負けて十分も経たずに夢を泳いでいるのですが、今日はどうも穏やかに生きすぎたようです。閉じた瞼の裏でじらじら動くぼうふらの観察に飽きたので、目を開き、時計を眺めると。ちょうど短針が2に触れたところでした。

もうこうなると眠れません。こういうのは初めてではありません。ここに越して直ぐは、眠れぬ夜に何日も悩まされました。

煩いんです。外が。

夜の東京は色んな音がします。

ここは一軒家ですから、幸いにも隣人トラブルとは縁がありません。そう勧められてこの家を選んだのですが、どうやら不動産屋の方便だったようです。カーテンを捲って外を眺めます。外は暗いです。コンクリートの壁が見えます。他には何も見えません。外からは見えないのですがどうやらこの家のすぐ横には雑居ビルが建っているようです。外からは見えないので断定出来ないのですが。

いえ、別にオカルト話をしたいわけではなくて。これから、なんですけど。

その窓は玄関とは逆の方向に開いてるんです。だから、窓の外を確かめるには裏手に回らなきゃいけないんです。でも行けません。

怖いんです。通りが。

しめ縄、と言って良いのでしょうか。あれは。編まれた縄が道を遮るように張ってあって。そんなもの切っちゃえば良いじゃないですか。でも駄目なんです。切ろうとして、鋏を持って、近づきました、前に一回。そしたら薄らと女が見えてきて、私の顔を見つめてくるんです。ほとんど真っ黒で、大きい目だけが真っ白です。他が小さいのかも知れないのですけれど。

離れると消えます。でも近づくと見えます。結局その時は切るのを諦めました。それ以来横の通りは覗いてません。怖いので。

もう一度時計を見ます。短針が2の中心に重なっています。外は暗いです。

あ。

女は黒いので、夜ならよく見えないかもしれません。それなら、縄を切る良いタイミングなのかもしれません。寝巻きの上からウインドブレーカーを羽織り、作業机の引き出しから鋏を取り出します。ちょきちょきと鳴らすと元気が湧いてきました。

玄関の扉を開けると煩い声がもっと煩くなりました。やっぱり東京は好きになれません。

頭だけをぬらりと出して通りを覗きます。夜の暗さで何も見えません。今日は月も出ていないようです。風もありません。好都合です。縄の張ってある辺りまで歩きます。

ぼんやりと縄が見える距離まで近づくと。ぼんやりと白いものが一緒に見えてきました。忘れていました。女の目は白いのです。 けれど目しか見えなければあまり怖くありません。思っていたよりは、ですが。

あまり目の方を見ないようにして、鋏で縄を切りました。ぱちん、と音がしました。そのまま残りの縄を全部切っていきます。ぱちん、ぱちん、ぱちん。

全部切れました。暗くてよく見えませんが、多分全部切ったと思います。すこし気になったので女の方を横目で見てみました。

白い目がぎょろぎょろと色んな方向に動いていました。蝸牛みたいです。黒い部分は相変わらずよく見えません。とりあえず、もう見つめてこないようなので嬉しいです。怖かったので。嬉しかったので今度は逆に見つめていたら、女は消えてしまいました。すぅ、と。離れた時みたいに。良かったです。

玄関の方に戻ります。家の裏を見るのは明るくなってからにしましょう。

ベッドルームに戻ると。

女がいました。真っ黒です。白い目をぎょろぎょろさせています。

目が合ってしまいました。白い目がじっと私を見つめています。

女が色んな音を叫び始めました。ほとんど黒いのに口は真っ赤でした。

怖いです。

煩いです。

縄なんか切らなきゃ良かった、と思いました。

慣れるのでしょうか。眠れるのでしょうか。東京は嫌いです。